アメリカで二度の「日本初」を成し遂げた、元NBAダンサー・小笠原礼子さんの飽くなき挑戦 〜タレントキャリアアドバイザー 別府 彩が聞く〜

昨今、渡邊雄太選手や八村塁選手など日本人選手の活躍が話題になっているバスケットボールリーグの最高峰、NBA。ゲームを華やかに彩り、チームをサポートするダンサーたちも必要不可欠の存在ですが、アメリカでは日本人ダンサーも活躍していることをご存知でしょうか。
今回は、NBAダンサーに30代で挑戦し、夢をかなえた小笠原礼子さんにお話を伺いました。

小笠原礼子
青森県南津軽郡藤崎町出身。高校時代にチアリーディングに出会い、大学卒業後は会社員として働きながら競技チアリーディングや各種スポーツの応援チアを経験。2017年からプロバスケットボールBリーグに所属する「サンロッカーズ渋谷」の公式チアリーダー「サンロッカーガールズ」として3年間活動。
30代でNBAダンサーへのチャレンジを決意し、2020-2021年「デトロイト・ピストンズ」、2022年「ユタ・ジャズ」でNBAダンサーとして活動。2022年にはNBAオールスターでもパフォーマンスをした。
2023年現役引退。

この記事の監修者

別府 彩
別府 彩タレントキャリアアドバイザー

元フリーアナウンサー/タレント。
大学卒業後、およそ10年間フリーアナウンサーとして活動。31歳のときにグラビア写真集「彩色」(竹書房)を出版。
「踊る!さんま御殿!!」(日本テレビ)に出演するなど、バラエティ番組やラジオパーソナリティ、テレビCMナレーターなどの経験を持つ。
33歳で芸能界を引退、広告代理店に正社員として就職。イベント運営会社、イベントコンパニオン事務所を経て2020年に株式会社エイスリーに入社。
現在は、アナウンサーから会社員という自身の転職経験を活かし、日本初の“タレントキャリアアドバイザー”として、芸能人やクリエイターのパラレルキャリア・セカンドキャリアのサポートを行っている。

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https://twitter.com/a3_ayabeppu

きっかけは、可愛いユニフォームに憧れて。社会人になっても働きながら取り組んだ「本気の趣味」とは。

―― 小笠原さんがダンスを始めたのは、いつ、どのようなきっかけだったのでしょうか。

高校でチアリーディングに出会ったのがきっかけです。
高校選びのために見ていた学校のパンフレットに、チアリーディングの可愛いユニフォームを着た先輩たちの写真を見つけて一目惚れでした。「私もこの可愛いユニフォームを着たい!」と、ただそれだけの動機で学校を決めて、入学してチアリーディング部に入りました。その時は、まさかここまでチアと人生をともにすることになるとは思ってもいませんでした。

私の出身高校は青森県の田舎にあり、指導者はおらず、学生自らで練習や振り付けを考えるようなチームでした。

当時、青森で開催された「青森アジア競技大会2003」のオープニングセレモニーで県内の高校生チアリーダーのメンバーが集まって演技をすることになり、日本チアリーディング協会の方たちが青森まで指導に来てくれたことがありました。
そこで見た本物のチアリーディングの演技に衝撃を受け、「私ももっとうまくなりたい、今のメンバーでもっと何かやってみたい」と思うようになりました。同時に、指導者の必要性も強く感じていました。

その後、仙台の大学に進学してチアリーディング部に入りました。
当時はあまり情報がなく「仙台に行けば強いチームがあるだろう」と思っていたのですが、そこも競技チアというよりは応援団のようなチームで、指導者もいませんでした。

そこで、自分たちで仙台にあるチアリーディングのクラブチームを見つけて指導をお願いしたり、合同練習を行ったりしていました。私自身はゼロから何かを作っていくことが好きだったため、当時もやりたい気持ち、上達したい気持ちに正直に行動していましたね。

大学卒業後も働きながらチアリーディングを続けていました。

―― 学校卒業後にチアリーディングを続けていくとなるとどういう道があるのでしょうか。

社会人のクラブチームやプロスポーツチームの公式チアリーディングチームに入るなどの方法があります。

しかしチアリーディングで稼ぐのはとても難しいことです。チアリーダーやダンサーも、最近はチームとプロ契約をする人も増えてきましたが、チアやダンス一本で生活ができる人はほぼいないと思います。
みんなチアとは別に会社員や学生や主婦などそれぞれの生活があり、仕事や学校の後、あるいは週末にチアの練習をしています。
だから私たちはチアのことを「本気の趣味」と言っていました(笑)

私は会社勤めが「ライスワーク」、チアは「ライフワーク」、この両輪でやっていました。
競技チアリーディングでは日本選手権大会でチームとして日本一にもなりましたし、Xリーグ(アメリカンフットボール)やWJBL(女子バスケットボール)、都市対抗野球など様々な形のチアを経験しました。

30代、NBAダンサーへの挑戦。自ら厳しい環境に身を置くことを選択した理由とは。

―― 30歳を超えてから、NBAダンサーを目指すのはとても大きなチャレンジだったと思います。
その一歩を踏み出せたのはなぜだったのでしょうか。

学生時代から競技や応援、エンタメとしてのチアなど様々な形で活動をしてきて、「より大きな舞台に挑戦したい」という気持ちをずっと持っていました。そのひとつの形として、いつかNBAダンサーになりたいと考えていました。

「サンロッカーズガールズ」に所属していた2019年に、アメリカのダンスキャンプに参加する機会を得ました。そこはNBAダンサーやNFLチアリーダーも参加しているレベルの高い世界でした。

そんなメンバーの中で、私は全く自分が思うように踊れませんでした。言語の壁も感じましたが、とにかく思っている以上に上手ではないのだと、自分の現在地を知るという意味でとても良い経験でした。同時に「もっと上手に踊れるようになるためにはこの環境に身を置かなければ」と決意するきっかけになりました。

―― 自分をさらに高められる環境を見つけたのですね。

私は誰からも叱られない環境にいると、甘えてしまって成長できないとわかっているので、気持ちの面であえて常にハイヒールを履いていたいと思うのです。

あとは、正直に言うと…悔しかったです。高校生の頃に青森で初めてチアリーディングの指導者の方に教えていただいた時の感覚にちょっと似ていて。このダンスキャンプでできなかったのは“今”の自分の実力であって、アメリカのこのハイレベルな環境で頑張ればもっとできるはずだという挑戦心が芽生えました。

帰国してからはNBAダンサーになるために、さらに一生懸命練習しました。まず、自分の意識が変わりました。
日本にも素晴らしいダンサーはたくさんいますが、私はダンスを始めた時期が年齢的に遅かったため、それまでは自分のなかで言い訳をしていました。自分に足りないのは、単純に経験しているダンスの幅が足りないからだとわかり、克服しようと決意しました。

足りなかったものを補うために、仕事が終わったら「サンロッカーガールズ」の活動や練習、さらにダンススタジオに通って様々なダンスを学びました。
恥も外聞も捨ててキッズチアの子たちと一緒に習い、体操教室にも行きました。30歳を過ぎて体操教室は勇気がいりましたね。1回でも怪我をしてしまったら長引くし(笑)
それでも失うものは何もないという覚悟で挑みました。

―― 大人になってからのチャレンジだからこそ、後には引かない覚悟が必要ですよね。

日本人のNBAダンサーでも、大人になってからダンスを始めた方は私が知っている限りいないため、「これで実現できたらすごく夢があるな」と思っていました。

とくに私は田舎出身であるコンプレックスが大きかったため、それを乗り越えたくて。何歳からでも、コンプレックスがあってもチャレンジしていいんだということを、自分の人生でなんとしても証明したかったのです。

私はエリートだったことがなくて。「サンロッカーガールズ」もオーディションで1回落ちていますし。
30歳を超えた時点で、そこからチャレンジすることは歳を重ねれば重ねるほど価値があることだと思っていました。実際に34歳でNBAダンサーのオーディションにチャレンジ、37歳で現役なんて「おおー!凄い!!」みたいな。
ダンサーとしても常にまだこれからだって思っていましたし「イケイケGO GO」でした(笑)

いざ、アメリカへ!チームで「日本人初」「最年長」NBAダンサーに。

―― NBAダンサーのオーディションのときは世界的に新型コロナウイルスが感染拡大して、国境を超えることが非常に難しい時期でしたよね。

そうです。NBAに挑戦するために「サンロッカーガールズ」は引退することを決めたのですが、コロナ感染者がどんどん増えていて、スポーツの試合も中止され、さらにブラック・ライヴズ・マター(※)といった問題もあり、タイミングとしては厳しい状況でした。

通常は7・8月頃にNBAダンサーのオーディションが各地で行われるのですが、2020年はオーディション情報もなく不安な日々でした。それでもいつオーディションが開催されても動けるようにコンディションをキープしていました。

秋から冬を迎える頃にやっとNBAのチームである「デトロイト・ピストンズ(以下ピストンズ)」がバーチャルオーディションを開催し、予想もしなかった形のオーディションでしたが、見事に合格し、メンバーになることができたのです。

※ブラック・ライヴズ・マター
2020年5月25日、ミネアポリスでアフリカ系男性が警察官によって首を圧迫されて亡くなり、その光景を捉えた映像が即時に拡散され、アメリカでは各地で大規模な抗議運動が展開された。

―― 有言実行、とうとうNBAダンサーの夢をかなえたのですね。

はい、34歳の時でした。ピストンズでは日本人初、最年長ダンサーだったのです。
しかし、この年はビザがおりなくて渡米できず、メンバーにはなれたのですが出演は実現しませんでした。次のシーズンにもう一度オーディションを受けて、ようやくNBAの舞台で踊ることができました。ピストンズはメンバーのスキルが高く個性もあって魅力的なチームだったのですが、チームによってダンスのスタイルも大きく異なるため、もっと私に合うチームがあるのではないかと思い、翌シーズンは別のNBAチーム「ユタ・ジャズ(以下ジャズ)」のオーディションを受けて合格し、1年間活動しました。
このときもチームで日本人初、最年長メンバーでした。

―― “日本人初”を2度も!“最年長”というのもとても価値があることだと思います。年齢を理由に何かを迷っている人にとって、とても励みになりますね。
小笠原さんがNBAダンサーとして活動されたなかで得たものや感じたことなどを教えてください。

ダイバーシティという点において、本当に多くのことを感じました。アメリカのチームにおいては私自身が日本人というマイノリティーで、正直に言うと、アメリカの生活のなかでは差別を経験したこともなかったわけでは有りません。
しかし、チームとしてはそうではありませんでした。ピストンズもジャズも、チームには人種やバックグラウンドやジェンダー、体型などの見た目も含めて様々な人がいます。オーディションで判断されるのは、ダンスやパフォーマンスが全てなのです。

―― アメリカのダンサーは色々なルックスの人がいて、その特徴を活かして魅力的なパフォーマンスをしているという印象です。

アメリカでは、それぞれが持っているアイデンティティーを否定されることがほとんどなくて、素敵なものは素敵だと認めるし、違うものは違うといえる環境があったと思います。日本でもそれを実現したいと強く思っています。ダンスはみんなのものだし、日本の子どもたちには「細くて可愛い子じゃないとできない」なんて思ってほしくないですよね。

ダンサーとしての夢をかなえた小笠原さん。NBAダンサー引退後のキャリアとは。

―― 2023年に日本に帰国されましたが、NBAダンサーはこれで卒業ということなのでしょうか。

そうですね。2022年にジャズで活動しながら、現役であることに対しては悔いがなく、このチームで終えられるなら幸せだと思い、引退を決意しました。
元々、チアやダンスの指導者になりたかったため、次の世代のダンサーたちのために、私が見てきたものや経験を、まだ湯気が立っているうちに渡したいと思いました。

―― 今年、さっそくディレクターの第一歩を踏み出したそうですね。

ご縁があって、楽天グループ運営協力の国際バスケットボール選手大会「Sun Chlorella presents World University Basketball Series」のハーフタイムショーでパフォーマンスをする特別ダンスユニット「A BETTER FUTURE TOGETHER Dance Crew」のディレクターとしてオーディションから関わらせていただきました。

これもNBAダンサーとして活動してきたからいただけたチャンスだと思います。こうやってひとつひとつのキャリアが繋がっていくのだと実感でき、とても嬉しかったです。

今回は結成から本番まで1カ月半くらいの期間だけだったのですが、メンバーのオーディション開催からパフォーマンスの指導などをさせていただきました。
実は、ディレクターとしてひとつ大切なチャレンジをしたのです。近頃は「叱らない指導」が取り上げられることがありますが、私自身はずっと叱られたり、強めの言葉で発破をかけられたりしながら育った人間なので、叱らない指導に疑問を持っていました。

そこで、ポジティブな言葉をかけ続けてチアアップすることで、どこまでできるのかを私がディレクターとしてやってみようと思い、実行したのです。

その結果、メンバー自らがもっと練習しなきゃと考えて行動してくれてチーム全体に主体性が芽生え、素晴らしいチームになったのだと思います。

―― 厳しく育てられた世代が指導側になると、つい同じ手法でやってしまいがちですよね。

そうですね。「叱らない指導」はNBAダンサーとしてアメリカで私が実際に経験したことです。
NBAダンサーのチームでは、ディレクターはまず褒めてくれて、認めてくれます。叱らなければならない状況では、メンバーの前で相手の評価を落とすようなやり方はしないのです。すごくリスペクトを感じていましたね。
私は現役時代から将来は指導者になることを考えていたため、どんな言葉をかけられたら嬉しいのだろうなどと意識しながら聞いていました。今回はそういった経験がうまく活かせたのだと思います。

―― 最後になりますが、小笠原さんがこれからやりたいことなど、叶えたいことを教えてください。

すでに予定しているものもあるのですが、NBAで学んだようなダンスを教えるワークショップを全国各地でやっていきたいです。NBAダンサーを目指している方や、現在Bリーグのダンスチームに所属している方などが参加してくださっています。後輩たちの夢を叶える一助になれたら良いなと思います。

また、キッズを対象にしたダンススクールや、親子が一緒に踊れるワークショップもどんどんやりたいです。ワークショップをやりながらダンスをツールとして、私の経験、例えば、年齢を超えたチャレンジやダイバーシティの理解を深めていくようなメッセージを社会に届けて実現していけたら良いなと考えています。

ダンスを伝えていく活動以外にも、アメリカで見て学んだ知識を活かしていきたいと思っています。
例えばダイバーシティ、LGBTQなどの課題に対して企業や学校などの団体と一緒に取り組んでいくようなことも考えています。

いくつになってもチャレンジできる、新しいことを始められるということをこれからも私自身が体現していきたいです。

 

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*本記事に記載された内容は取材時2023年8月23日のものです。その後予告なしに変更されることがあります。