「国際派俳優・モデル」として成功を掴んだ大塚シノブさんのセカンドキャリアとは 〜タレントキャリアアドバイザー 別府 彩が聞く!〜
大塚シノブさんと私、タレントキャリアアドバイザーである別府彩の出会いは2023年5月。
大塚さんは2005年頃から中国や香港を拠点にして俳優活動をしていましたが、その後帰国。現在は帰国後に所属していた芸能事務所からも独立してフリーランスで活動中。
独立のきっかけは、芸能ジャンルだけでなくビジネスや文化活動にも興味を持ち始めたことだったそうです。すべてのやりたいことをかなえるための道を模索しているタイミングで“タレントキャリアアドバイザー”である私のことを知り、相談したいと連絡をくださいました。
日本人である大塚さんが、どのようにして中国で俳優・モデルとしてチャンスを掴んだのか、そしてさらにこれから成し遂げるであろう新たなチャレンジについてお話を伺いました。
この記事の監修者
元フリーアナウンサー/タレント。
大学卒業後、およそ10年間フリーアナウンサーとして活動。31歳のときにグラビア写真集「彩色」(竹書房)を出版。
「踊る!さんま御殿!!」(日本テレビ)に出演するなど、バラエティ番組やラジオパーソナリティ、テレビCMナレーターなどの経験を持つ。
33歳で芸能界を引退、広告代理店に正社員として就職。イベント運営会社、イベントコンパニオン事務所を経て2020年に株式会社エイスリーに入社。
現在は、アナウンサーから会社員という自身の転職経験を活かし、日本初の“タレントキャリアアドバイザー”として、芸能人やクリエイターのパラレルキャリア・セカンドキャリアのサポートを行っている。
Twitter
https://twitter.com/a3_ayabeppu
目次
開花しきれなかった俳優人生の初期。モンゴルでの運命的な旅をきっかけに、中国留学を決意。
―― 大塚さんが俳優を志したのはどのようなきっかけがあったのでしょうか。
小学生の頃に合唱団に所属していて、音楽劇などの舞台に立ったことが何度かありました。その大きな一体感に、子どもながらに震えるほどの興奮を覚え、表現することが自分には合っているのかなと感じていました。ドラマや映画をたくさん見ているうちに俳優という仕事に憧れるようになり、10代の頃はいくつか大型の公募オーディションにもチャレンジしました。
しかし、いつも最後の数人までは残るものの、最後の一人にはなれませんでした。そこには何か原因があるのだろうと考え、それを探るためにも事務所に入って地道にやってみようと、最初は自分で探した小さな事務所に所属することにしました。主にCMでしたが、何百ものオーディションを受けました。最初の頃はちょこちょこお仕事が決まっていたのですが、徐々に事務所が求める「清楚なお嬢様イメージ」と自分とのギャップを感じるようになり、オーディションでも上手く振る舞うことができなくなり、受からなくなってしまいました。
オーディションに何百回も落ちるというのは、外見の要素も含めて自分自身を全否定されたような気持ちになります。特にCMのオーディションの場合は企業や商品のイメージと異なるという理由なのでしょうけれど、そのことに気づくまでは自分のどこが悪いのだろうと悩み、自分を責め、結果として事務所を退所することになりました。
この頃の経験は苦しいこともありましたが、どうしたらオーディションに受かるのか自分なりに模索したり、マネージャーという仕事を見て学ぶことも多くありました。
―― その後、中国で芸能活動を開始されたのですか。きっかけは何だったのでしょうか。
最初の事務所を退所した後、またご縁があって今度はモデルとして、別の事務所に入りました。
その頃、プライベートでモンゴルを旅したのですが、約10日間、馬に乗って朝から晩まで草原を走って移動していく旅の最終日に、同じツアーに参加していた方が私の目の前で落馬して亡くなるという事故に遭遇しました。この出来事によって「命があるうちに、生きたいように生きなきゃ!」そんな思いに突き動かされたのです。
帰国してからもモンゴルのことが忘れられず、モンゴル映画に夢中になっていました。内モンゴルを舞台にした「グリーン・デスティニー」という映画があるのですが、それをきっかけに中国映画を見るようになりました。そして「紅夢」を観た時、衝撃的に「絶対にここに行かなきゃ!」と思ったのです。こうして運命に運ばれるようにして中国へ行くことになったのです。今振り返ってみるとあの頃は直感が冴えていた時期でした。
クラスメイトの紹介から仕事の縁が数珠つなぎに。異国の地、中国で俳優・モデルとして才能が花開く。
―― 中国に行くにあたってどのような計画があったのでしょうか。
計画より行動が先走っていましたね。考える間もなく、行けば何とかなるという精神でした。
まずは中国に詳しい方を探して、話を聞きにいきました。北京電影学院という映画の大学に中国語を学ぶコースがあると聞き、英語で北京電影学院に連絡をしたところ、三カ月後が入学時期で、そのタイミングを逃すとまた半年間待たなければならないと言われました。そこで、すぐに決断して中国へ行く準備をしました。日本で中国語の勉強をしたのも一カ月間だけでした。戻る場所を残して保険をかけるようなことはしたくなかったので、所属している事務所にも伝えて退所しました。
当時、コネも伝手もない状況でしたが、だからこそ自分の実力が試される、いいチャンスだと思っていました。中国映画を見て、中国人のもつ力強さや人情深さ、ハングリー精神が、自分がこれから生きていくにあたって必要なものだとも感じていました。
そういう人間力を学びながら、映画出演など芸能の仕事もしていけたらいいなと思っていました。
―― 中国に留学という形で渡り、どうやって芸能のお仕事のチャンスを得たのでしょうか。
最初に中国に行ってから三カ月くらいで「SARS」(重症急性呼吸器症候群)の感染が拡大し、帰国を余儀なくされました。状況が落ち着いてから再び北京電影学院に戻って残りの授業を受けた後、中央戯劇学院という演劇を学ぶ大学に進学しました。
その時の中国人クラスメイトから「知り合いがCMのメインキャストを探しているから、オーディションに参加してみない?」と声をかけられて参加したところ、合格してCMに出演することになったのです。その撮影の打ち上げで、偶然席が隣になった女性とお話をしたところ、香港で有名なモデル事務所の北京支社を紹介してくださり、後日その事務所を訪ねる事になりました。
モデル事務所のオフィスには、香港のスターモデルの写真がズラッと並んでいて「これは場違いなところに来てしまったな」と思いました。私が持参した写真と、実際の私のスタイルを事務所の方にチェックされ「なにかあれば連絡しますね」と冷たい対応をされて、面談は五分で終了しました。がっかりしていたら、三日後くらいにそのマネージャーから電話がかかってきたのです。「瑞麗(ルイリー)」という、中国で一番売れていた女性ファッション誌(女優やタレントの登竜門的な人気雑誌)の編集の方とお会いすることになり、数日後には実際に撮影をすることになったのです。それをきっかけに、その事務所と契約することになり、雑誌モデルのオファーをたくさんいただくようになりました。さらに半年後には、日本人として初めて抜擢されてその「瑞麗」の表紙を飾ることになったのです。
―― 日本ではなかなかオーディションに受からなくて悩んでいたのに、中国ではトントン拍子でお仕事が決まっていったのですね。
10代の頃に日本でオーディションに落ち続けた経験が、ここで活かされたのだと思っています。
さらに、数カ月後にまた大きなチャンスが巡ってきました。化粧品ブランドのイメージキャラクターのオーディションに呼ばれたのです。香港の「FANCL」がイメージキャラクターを探していたのですが、選考が難航していて、チャンスが巡ってきた私はオーディションを受けるために香港に行きました。その時のヘアメイクさんが偶然にも香港在住の日本人の方で「この仕事が決まったら人生変わるよ!」と言われたのです。香港の「FANCL」は有名人を起用して大々的にやっているので、私では受かるはずがないと思っていたのですが、私に決まったのです!
本当に驚きましたし、いつかは化粧品のイメージキャラクターをやってみたいという漠然とした夢もあったので本当に嬉しかったです。
―― 異国の地で、大きなチャンスを自分のものにしたのですね。
日本ではオーディションにたくさん落ちて悩み苦しみましたが、それがあったからこそ自分自身でプロデュースすることもできましたし、表現するスキルが磨かれたのだと思います。中国ではオーディションはもちろんですが、通訳も無しですべて中国語でやりとりをします。誰の指図も受けずに自分の思った通りに表現することで、国境を越えて認められて大きな仕事が決まったのです。色々な感情が込み上げてきて、あの時は香港の路上で思わず泣いてしまいました。
そのイメージキャラクターのお仕事がきっかけになり、中国では映画やドラマ、テレビ番組、広告など色々なお仕事のオファーをいただきました。2007年には本木雅弘さん主演の日中合作映画「夜の上海」にも出演しました。
この映画を機に、日本で活動しないかとお誘いを受け、中国の仕事が一段落したタイミングで帰国、日本で大手事務所に所属して俳優として活動することになりました。
―― 帰国してからの芸能活動はいかがでしたか。
映画やドラマ、舞台、化粧品ブランドのイメージキャラクターなどやりたいことは一通り全部やらせていただきました。特に子供の頃からの夢だった海外との合作ドラマで主演を果たせたのは嬉しかったですね。
この頃はシンガポールに興味があって、シンガポールで仕事ができないかと色々調べていたのですが、なかなか見つからなくて。そんな時に、事務所から「TBSがシンガポールと日本の史上初の合作ドラマ制作を企画していて、主演候補に入っているからプロデューサーに会いに行こう」と言われたのです。そのプロデューサーは貴島誠一郎さんでした。「愛していると言ってくれ」(TBS)や「フレンズ」(TBS/日韓共同制作ドラマ)などを見ていて、「フレンズ」に関してはサントラ盤のCDを買うくらいのめり込んでいたんです。いつか一緒にお仕事をしたいと思っていました。
貴島さんの作品で、しかも日本とシンガポールの合作作品。主演候補は私の他にもいたらしいのですが、どうしてもやりたいと思い、どうアピールするかを考えました。貴島さんは、積極的にグイグイ押すタイプの人間とそうでない人間のどちらの方が好きか、TBSの知り合いにお聞きしたのです。営業でもグイグイ押されるのが苦手な人もいますよね?その結果、私の想像通りの答えだったので、安心してグイグイ押して行こうと決めました(笑)
マネージャーと一緒に顔合わせに伺ったとき、タイミングを見計らって捲し立てるように自己PRをしたのです。「私を使わないと損しますよ」くらいの勢いで(笑)通常、映像資料はマネージャーが顔合わせ後にお渡しするものなのですが、その時は自分で編集した映像資料を持参して「これ、見てください!」と貴島さんに私から直接お渡ししたのです。後日ご本人から伺ったのですが、貴島さんはその時の私の行動にかなり驚き、私のバイタリティーに押されたというようなことをおっしゃっていましたね。こういうアピールの仕方も、中国にいた頃に自分で営業していた経験から身についたものだと思います。
多くの人や企業の役に立ちたい。活動の幅を広げるためにフリーランスの道を選択。
―― 中国では自ら営業もしていたのですね。
はい。事務所が繋いでくださるご縁もありますが、私のところに直接オファーが来ることもあるので、その時は自ら出向いて、中国語で自分を売り込んだり条件交渉をしたりもしました。事務所に所属していましたが、私は外国人なので自分を守るために事務所に全てを任せず、中国語の契約書に目を通して確認をしたり、修正をしてもらったり、取材記事の確認などの作業もすべて自分でやっていました。
俳優として演じる力だけでなく、中国では営業力も交渉力も学ぶことができたと思います。
―― 日本に帰国してからも俳優として順調だったと思うのですが、なぜフリーランスの道を選んだのでしょうか。
帰国後一、二年くらいは中国からのオファーも続いていましたが、私自身が日本にいるため日本でのお仕事のスケジュールが優先されるので、中国との距離がどんどん開いてしまったのです。もっと海外でも自由に活動したいというのがフリーになった一つの理由です。
もう一つは中国に行ったことをきっかけに世界の広さや多様性に触れ、芸能以外のこともやってみたいと考えるようになったことです。以前はストイックに俳優として芸能界しか見ていませんでしたが、中国、香港、シンガポールで仕事をしたことで様々な国の文化や人と出会うことができました。海外の俳優さんは俳優業だけでなく監督やプロデューサーもしていたり、芸能とは全く異なるビジネスをやっている方もいるのです。私にはそれがとても羨ましく見えていました。
―― それを大塚さんご自身もやってみようと決意したのですね。具体的にはどのようなことをやっているのでしょうか。
まずは自分の経験に近いことから始めてみました。講演のお仕事や映画のコラムを書かせていただいたり。実は本の出版もするために二年程かけて一冊書き上げたのですが、出版直前にその出版社が倒産してしまい、結局お蔵入りになってしまいましたが色々なことを学べました。様々な表現方法や、読者の立場、すなわち相手の立場に立って物事を考えるということだったり…。他にも中国語を活かしつつ、PRや中国のインバウンド・アウトバウンドに関わる仕事や、企業へのアドバイスなど規模は小さいながらも、たくさんのことを経験させていただきました。このような経験を通して、消費者の人たちがどのようなことを求めているのかを常に念頭に置いて動く習慣が身についたと思います。
今年は中国でスキンケアブランド商品のアンバサダーを務めることも決まっています。現在は中国市場での商品企画やプロデュースなどに向けて、サポートしてくれる会社と一緒に動いています。
またその土台作りとしても始めた中国のSNSを利用した動画投稿など、インフルエンサーとしての活動もさせていただいています。昨年は私のSNSが中国のネットニュースでも取り上げられました。
日本からアジアへ、「伝える」「つくる」「つなぐ」。さらにフィールドを広げていく大塚シノブさんの未来とは。
―― 様々なご経験をされて、これから実現したいことはどんなことでしょうか。
これまでの俳優・モデルとしての延長線上では、今後もアンバサダーやイメージキャラクターといった活動を増やしていきたいと思います。
中国の映画出演オファーをいただくこともあり、俳優として映像作品への出演機会があれば、国を選ばず積極的に参加したいと思っています。
また、講演をしたり取材を受けることで、私の人生経験を伝えていきたいです。過去に私の話を聞いた方が、人生を変える行動のきっかけになった、ビジネスに役に立つとおっしゃってくださった方もいて、誰かの役に立てたら嬉しいです。
さらにこれは幼い頃からの最大の夢なのですが、最終的には環境問題や労働問題、海外の貧困といった社会課題をビジネスと繋げて、少しでも平和な世界が作れるようなソーシャルビジネスをしていきたいと考えています。日本には質の良いものがたくさんありますが、中国などアジア地域ではそうではない。だからこそ健康に良いもの、環境に優しいもの、日本の伝統工芸品などを自分のセンスを活かして海外に向けて発信したり、アジア地域をターゲットにした商品開発や企画、プロデュースをしていきたいと思っています。
ドキュメンタリーや旅にも関心が強いので、アジアを始め海外の方たちにもっと本当の日本の姿を知ってもらえるような映像作品や、逆に中国文化を日本に伝える映像作品作りにも関わってみたいです。
きっと私は根本的に“考える”ということが好きで、俳優という職業も私にとっては、その入り口だったと思うのです。これからもどんどんいろんなことを考えて、それらを社会の中で活かしていける環境を作っていきたいです。
―― そういったやりたいことを叶える上で、俳優やモデルのお仕事を通じて得られた大塚さんの強みはどんなことだと思いますか。
多くのオーディションに落ち続けて身についたのは、叶うまであきらめない力や粘り強さです。それは忍耐という意味ではなく、目標を達成する方法を考える力のことです。その手段は決して一つではないはずなので。
その結果、これまで不可能だと思われることも実現できたのだと思います。
また、俳優やモデルの仕事は、一度舞台やカメラの前に立つとそこからは誰も助けてくれません。体調が悪かろうと私生活で何があろうと、そこに映る一瞬がすべての世界。ミスをすればすべて自分の身に降りかかってくるわけです。そのミスで仕事を失うこともあります。だから、一つ一つの仕事に対して細部まで熟考し、準備し、100%の力で真剣にやるのは当たり前。それでも答えのない仕事なので、いい結果がでないこともあります。一分一秒の集中力も必要です。そういうシビアな世界で生きてきたからこそ、芸能以外の仕事でも、仕事の大小に関わらず常に危機感を感じて、真剣に向き合うことができる。
俳優、モデルという仕事は短期間で環境もメンバーも変わっていくので環境適応力やコミュニケーションスキルは高くなりますし、演じるときの感情の機微を読み取る力はビジネスシーンでも役立つはずです。また、私は中国で世界中の方たちとグローバルな環境で仕事をしてきましたので、ビジネスレベルの中国語はもちろんですが、そういった感覚や経験を活かしていきたいと思っています。