どんな逆境も怖くない!“Happy Man”2700ツネさんの副業芸人人生 〜タレントキャリアアドバイザー 別府 彩が聞く!〜

2700 ツネ
1982年10月15日生まれ。大阪府和泉市出身。
吉本興業に所属するお笑いコンビ「2700」のメンバー。相方は八十島(やそしま)。
2011年「キングオブコント2011」ではコンビで出場し、準優勝した功績を持つ。
この記事の監修者

元フリーアナウンサー/タレント。
大学卒業後、およそ10年間フリーアナウンサーとして活動。31歳のときにグラビア写真集「彩色」(竹書房)を出版。
「踊る!さんま御殿!!」(日本テレビ)に出演するなど、バラエティ番組やラジオパーソナリティ、テレビCMナレーターなどの経験を持つ。
33歳で芸能界を引退、広告代理店に正社員として就職。イベント運営会社、イベントコンパニオン事務所を経て2020年に株式会社エイスリーに入社。
現在は、アナウンサーから会社員という自身の転職経験を活かし、日本初の“タレントキャリアアドバイザー”として、芸能人やクリエイターのパラレルキャリア・セカンドキャリアのサポートを行っている。
Twitter
https://twitter.com/a3_ayabeppu
目次
ナインティナインに憧れて芸人養成所に入所。若手芸人のアルバイト事情とは?
―― ツネさんはNSC(吉本総合芸能学院)のご出身ですよね。芸人を目指すきっかけはなんだったのでしょうか。
小学生の頃にとんねるずさんの番組を見て「楽しそうだな」と芸能界に興味を持ちました。それからはそういう仕事がしたいな、という考えがふわっと頭の中にあって。中学生の時にナインティナインさんの番組を見て「この人みたいになりたいな」と自分の中で確信したのです。
ナインティナインさんのことを調べていくと、NSC出身であることを知りました。それなら自分も、ということでNSCに入りました。
―― 2700としてコンビを組んだのが2008年。この頃の生活はいかがでしたか。
この頃は、毎週劇場に立っていましたが、ギャラは覚えていないです。もらっていたかどうかも覚えていないくらいです(笑)
劇場の出番も週に一回くらいだったと思います。毎週新ネタを出さなければいけない劇場のレギュラーメンバーにはなっていたのですが。ネタは相方の八十島さんが考えて、一緒に練習をして、空いている時間はアルバイトをして、という感じの生活でしたね。
―― その頃はどんなアルバイトをされていたのでしょうか。
その時は二つの仕事を掛け持ちしていました。八十島さんと一緒に、建築現場で資材を運ぶ仕事をしていました。もうひとつは「炭火焼肉たむら」というお店でアルバイトをしていました。
―― 芸人のたむらけんじさんのお店ですね!芸人さん同士でアルバイトの情報交換をすることはありますか。
しますね。お金や効率も大事ですが、自分たちの中ではアルバイト先に芸人仲間がいるかどうか、というのが一番大事です。
というのも、普通にアルバイトをしていても楽しくないためです。若手の頃はうまく割り切れなくて、アルバイトをしていると「芸人として仕事をしたいのに、俺は今何をやっているんだろう」という気持ちがすごく強くなります。しかし、生活をするためにはアルバイトもしなくてはならない。そこに一人でも芸人仲間がいると、ちょっとしたノリが生まれたりトークが生まれたりするので乗り越えられますね。
2008年に「キングオブコント」決勝進出!それでもアルバイトはやめられなかった
―― アルバイトも、芸人仲間と一緒に頑張ることでモチベーションを保てるかもしれないですね。芸人としてのお仕事はどのようにして変化していったのでしょうか。
キングオブコントの決勝に進出した2008年頃から、少しずつ芸人の仕事も増えてきました。
この勢いで東京に行こうという話になって、すぐに実行しました。確か2008年の11月頃だったかな。
キングオブコントの決勝が決まってから1ヶ月くらいの時間があり、この時期に一気に大阪の仕事が増えたので、この勢いなら東京でもいける、と思っていました。しかし、東京での仕事は全然増えなくて。東京はやっぱり難しかったですね。
しかも僕は東京に出るタイミングで結婚したので、東京に行ってからもまだアルバイトはしていました。
その後2011年にもう一度キングオブコントの決勝に進出しました。
2012年に子どもが生まれたのですが、双子だと聞いた時に「今のアルバイトだけじゃ無理だから、アルバイトを増やさないと」と考えましたね。
その頃からちょくちょくテレビに出るようになって、アルバイト先の人に「テレビで見たよ」と声をかけてもらったことを覚えています。
―― 2011年頃はネタ番組などの露出も多かった印象ですが、それでもまだ芸人一本では食べていかれないのですね…厳しい世界ですね。
テレビに出ているとすごく稼いでいるように思われますが、キングオブコント二回目の参加まではずっとアルバイトをしていましたね。
2012年頃が芸人としては一番忙しい時期でしたが、2013年の年末くらいからはだいぶ落ち着いてきてしまって。その翌年には「ちょっとやばいな」という感じになってきたのです。
子どももいるし、家族を養わなきゃいけないという思いから必死になって、芸人としての直接の営業をたくさん受けていて、それが謹慎処分にも繋がってしまったのですが…。
不動産の仕事を始めたのは2014年くらいからですね。社長と知り合いだったので、働かせてもらうことになりました。
―― どんなお仕事をしていたのでしょうか。
会社が不動産の売買をする会社だったので、初めは売買のことを覚えようと頑張っていたのですが、もう内容がわからなさ過ぎて。僕、数字とかめっちゃ苦手で。会社の人が「じゃあ賃貸部門を作るので、ツネさんはそっちをやりましょう」と。
―― え!?ツネさんのために会社が賃貸事業を始めたのですか。
そうです。それから賃貸の店長という形でスタートをして、数年働いていました。
一般のお客様もいましたが、基本的には芸人や、芸能関係の方が多かったですね。紹介した方からさらに他のお客様を紹介していただいていました。
―― 家を契約するときは個人情報の開示をしなければならないので、芸能人は慎重になりますよね。そこは同じ芸能界で働くツネさんだからこそ、信頼されていたのかもしれないですね。
そうですね、収入などの個人情報もすべてお聞きすることになるので、その点に関しては安心してご利用いただいていたかと思います。
活動停止、コロナ禍、相方の休業。苦しいときに手を差し伸べてくれる人たちがいた
―― そんな中で2019年に2ヶ月間の活動停止、2020年にはコロナ禍の影響、相方である八十島さんの休業など様々な出来事が続きましたね。その頃のこともお聞かせいただけますか。
そうですね…活動停止の影響で、不動産会社の仕事も辞めることになったので、マジで焦りましたね。
これからどうしようかと考えていた時に、芸人の先輩であるラフ・コントロールの重岡さんが声をかけてくれたのです。重岡さんは副業でエアコンの清掃会社をご自身で経営されていて「ツネ、うちでちょっとやってよ」と言ってくれて。まさに謹慎期間中のことですね。そこでめちゃくちゃ助けてもらって。重岡さんに助けてもらったという感じです。
この頃、重岡さんが僕にできるだけお給料をくれようとしていたので、僕もいっぱいお客様を紹介した方がいいなと思って。知り合い伝に「今、僕はエアコン清掃の仕事をやっているので掃除に行かせてください」とたくさん紹介してもらいました。
―― 重岡さんの気持ちもステキですが、その気持ちにきちんと返そうとするツネさんも義理堅いですね。
自分が原因でこうなったから、という気持ちがあったので。重岡さんが僕に多めにお給料を払ってくれるということは、会社の利益を減らすことになりますから、そうならないようにできるだけ案件を増やそうと考えていましたね。ちょうど夏だったのでエアコン清掃の忙しい時期に働かせてもらっていました。
―― 芸人としての仕事がなかなか入ってこない時期、モチベーションはどのように保っていたのでしょうか。
正直、気持ちはめちゃめちゃきつかったです。でも、自分の中で「今ここまで下がっているから、今後はたぶん上がっていくやろうな」という思いもあって。
僕には家族もいるので、親としてやらなきゃいけないという責任感もありました。
でも僕はもともと根がポジティブな方で、もう少し考えろと言われるくらいあまり深くは考えないタイプなので。
―― 2700の活動がままならない状況はどのように捉えていましたか。
僕が不動産をやっている頃から八十島さんが入院と復帰を繰り返していたのです。
八十島さんがいつまた体調を崩すかわからないので、事務所としても仕事を振りにくい、という事情がありました。
だから僕は僕で動いていて。実は海外で挑戦したいというのはずっと思ってやってきているので、パフォーマーが集まるライブに顔を出すなどしてモチベーションを保っていた部分はありますね。
―― 2020年頃でしょうか、キッチンカーもやっていらっしゃいましたよね。
そうです、コロナ禍のときに始めました。これもきっかけはラーメン屋をやっている知り合いが店の前の広いスペースにキッチンカーを置いてかき氷屋をやるから手伝ってほしいと声をかけてくれたのです。
―― ツネさんのフットワークの良さ!声をかけられたら、断らずにとにかくやってみようと挑むところがスゴイですね。
いや、もうやるしかないんです、本当に。収入がストップしてしまうことがとてもやばいので、やらせてくださいって言って。
まん防(まん延防止等重点措置)の頃にスタートして、かき氷とお酒などの飲み物を販売してました。
近所の人が良く来てくださっていて。またファンの方も実は来てくれていました。この時期は劇場も休んでいたし僕も芸人としての仕事に行くこともなかったので、皆が来てくれていましたね。そこで色々な方たちと結構仲良くなって、普通に飲みに行ったりもするようになって。僕はやって良かったですね、すごく。
キッチンカーをやっていくうちに楽しくなってきて、キッチンカーを買い取ることにしました。
自分でキッチンカーを運営するために、Twitterで「修業させてください」と募集をしたところ、数名声をかけてくださった方がいたので、アルバイトとして数日ずつ数店舗で働かせてもらいました。食品衛生管理者の資格や営業許可証なども取りに行きました。
メニューに関しては、修行先の方々がアドバイスをくださって。「こんな感じはどうですか」「この方がツネさんぽくないですか」など色々教えていただいて、味見もしてもらいましたね。試作を何回も繰り返して、それでできたのがクリスピーポークです。
―― ハイサイソースとコラボされた「ホットヒーヒー」はキッチンカーから生まれたのでしょうか。
そのクリスピーポークに合うソースを作りたくて試行錯誤していたときに、沖縄の「ハイサイソース」に出会って「これだ!」と思ったのです。
友人伝で紹介していただき、「ホットヒーヒー」としてコラボをさせていただくことができました。
―― 色々な縁がつながっていきますね。2021年にはYouTubeチャンネルのチームカジサックに参加されましたよね。
はい、このときもカジサックさんが声をかけてくださって。チームカジサックでは出演だけでなく編集も行っています。編集はチームの方に教えていただいて少しずつ覚えていきました。
―― 重岡さん、不動産の社長さん、ラーメン屋さん、カジサックさんとツネさんの周りには困った時に声をかけて助けてくれる仲間や先輩がたくさんいらっしゃいます。
ツネさんが芸人としてやっていけるのは、ツネさんの人間力というか、与えてくれる人にきちんと返そうとする人柄があるからなのかな、と感じました。
そうですね。めちゃめちゃありがたいですね、本当に。みなさんのおかげでなんとかやっていけています。
副業をしながら続けてきた芸人人生、副業とは「自分の幅を広めるもの」だった。
―― ツネさんは様々な副業をしながら芸人として活動し、家族も支えています。
ツネさんにとっての副業はどのようなものでしょうか。
僕がなぜ副業をしてきたのかと言うと、結局は生きるため、家族を養うためです。本音を言えば芸人一本でやっていけるのが理想です。
ただ、副業をすることによって自分の幅はめちゃくちゃ広がっている気がするので、結果としてよかったなと感じています。僕にとって副業とは「自分の幅を広めるもの」ですね。
ただ副業にどっぷり浸かるのもちょっと怖い気はしますけどね。
―― 副業をしながらも「芸人を続けていきたい」という思いの原動力になっているのはどんなことでしょうか。
そうですね、最終目標は海外でのパフォーマンスです。できる、と僕は信じているので、逆にそこの気持ちがなくなってしまうと、たぶん生きている事自体が楽しめなくなってしまうかもしれないです。
―― 海外進出を目標にされている中で、2022年末にはアメリカでのパフォーマンスを実現されていましたね。
はい。色々なところに行きたいと思っているのです。理想は、様々な国で子ども向けにやりたいです。僕は世界中でピエロになりたいと思っています。
ピエロの格好をしたいということではなく、ピエロのような存在になりたい。それが自分の理想形です。そうするためにはどうしていけばいいのかな、ということを今は考えています。
「楽しませたい」という気持ちもありますし、僕が行くことで「あっ来た、ツネが来た!」って思ってもらえたら僕がとても気持ちいい、というのもあります。様々な国でそれができたらな、と思っています。