株式会社ホリプロ・津嶋 敬介氏が語る これからの芸能プロダクション業界の「働き方と求められる人材像」

 

『エンタメ人』がお届けする、エンタメ業界のトッププロデューサー/経営者へのインタビュー連載。

エンタメ業界へ転職を考えている方へ向けて、若手時代の苦労話から現在の業界動向まで伺っていく。第3回目に取り上げるのは、芸能プロダクション。

若者のテレビ離れやYouTubeの台頭により、芸能界は大きく様変わりしつつある。そうしたなか、業界では、芸能プロダクションでは今どのような人材が求められているのだろうか?

株式会社ホリプロで、取締役 執行役員を務める(映像事業部)津嶋 敬介氏に、業界の動向と展望について伺い、必要とされる人材像を探る。(編集部)

プロフィール

津嶋 敬介(つしま・けいすけ)
1964年2月生まれ。奈良県出身。奈良学園高校~関西学院大学法学部卒。
1987年4月 株式会社ホリプロ入社、映像事業部に配属されCM・ドラマ・バラエティ番組のAD・APを務める。
1990年4月 マネージメント第一事業部に異動。マネージャー、チーフマネージャーを務めた後、
2003年4月 部長就任。2013年6月 映像事業部に異動。執行役員として、映画、ドラマ、バラエティ、ドキュメンタリー、CM、配信、web動画等、あらゆる映像制作に関わる事業部を統括する。2016年6月 取締役(映像事業担当)就任、現在に至る。
※取材当時の情報になります

キャンディーズのコンサートでおぼえた違和感が業界を志すきっかけに

── どんな経緯でホリプロに入社されたのでしょうか?

そもそも、この業界への興味が湧いたのは、中学一年のとき。
地元の奈良県文化会館に、当時人気絶頂だったキャンディーズがやってきたんです。同級生から、そのコンサートチケットを2枚手に入れたので一緒に行かないかと誘われて。当時1カ月の小遣いが800円だというのに、チケット代が2,500円。かなり悩みましたが行こうということになって、キャンディーズが大好きだったんですが、コンサートが半分くらい経過したところでだんだん腹が立ってきて…(笑)。

こっちは小遣い3カ月分でもまだ100円足りないというのにお金を払って客席から拍手をして見上げている。あっちはお金をもらってスポットライトを浴びている。同じ人間なのにこれはおかしいんじゃないかと。

「どうせだったらあっち側に行かなきゃいけない。ただ、私があそこには立てない。ならばあの裏側に行ってみたい」と思ったのが芸能界に興味を持ったきっかけです。
それで新卒採用の試験を受けて大学を卒業後、87年にホリプロに入社しました。

── 20代の働き方や仕事で苦労したことについて教えてください。

入社して最初の3年間は今現在いる映像事業部に配属されました。20代の頃はADとAPをしていたので、肉体的にも精神的にもきつい仕事でした。仕事が10あるとしたら、辛いことが9、楽しいことは1(笑)。よく辞めなかったと当時の自分をほめてあげたいですね。

ただ、3年目になると自分でも企画を提案できるようになって、少しずつ楽しくなってきたんです。ところが、ようやく仕事が面白くなってきたと思った頃に、マネージメント事業部に異動になりました。
今でこそ、ホリプロはスター集団ですが、私が20代の頃は売れている人はまだ少ない時代で。マネージャーというのは基本的にセールスマン。局や制作会社などに行って、タレントのプロフィールを見せて仕事をとってくる毎日。私が若造なうえに売れていないから邪険に扱われることが多くて、ほんとに辛かったですね。

でも「この子のここがいい」「こういうところがすごい」とタレントをセールスしているうちに、自分の言葉に自分自身が洗脳されてきて、そのタレントが本当にいいと思えてくるんですよ。すると、その思いが相手に伝わるし、仕事が決まるようになってくる。そのうち、だんだんマネージャーという仕事が楽しくなってきました。

── 苦労されたなかで、仕事の糧になったと思う体験はありましたか。

ある年私がホリプロタレントスカウトキャラバンの実行委員のひとりに選ばれたんです。そのとき、ファイナリストにすごくいい子がいて。私は「絶対この子がいい」と主張しました。結局、その子はグランプリに選ばれなかったんですが、当時のチーフマネージャーである上司に「私が彼女をマネージメントしたい」とお願いしたのですが却下されました。何度もしつこく食い下がったところ、「やってもいいが、おまえひとりでやれよ。俺は一切手伝わないからな」と言われ、所属させてもらえることになりました。

そこそこ仕事はとれたんですが、残念ながら結果的にあまり売れず。5年ぐらいで引退させてしまったのがとても悔しくて。当時は私も20代でキャリアも人脈もノウハウもない。スターにしてあげられなかった悔しさを糧に、その後のマネージャー人生を送りましたね。

タレントにすごく才能があってもマネージャーがダメだったら売れないし、逆にマネージャーがよくてもタレントがダメだったら売れない。よく言われるのが、100点満点あったとしたら、タレント6割でマネージャーが4割。

仮に80点でスターになれるとしたら、タレントがいくら頑張っても60点、マネージャーは40点。両方頑張ってはじめてスターになれるというわけです。

── 30代以降の働き方について、大変だったことなどについても教えてください。

28歳のとき、当時の上司が異動になった際、その上司から後継者に推薦されたんです。その班には先輩が3人もいて、実績も自信もなかったから躊躇したんですが、当時の社長に促されるかたちでチーフマネージャーになりました。けれど、私自身が若かったこともあり、部下をうまくまとめられない。

すると社長から「学校じゃないんだから全員を平等に扱う必要はない。頑張る者を贔屓し、仕事しない者は見捨てるか、叱って引っ張り上げるしかない」と助言をもらって。有望と思える部下を可愛がって、ついて来ようとする部下がいれば拾い上げればいいし、離れていく部下は放っておけばいいと。言われた通りにやっているうちに、確かに状況が変わってうまくいくようになりましたね。

 

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ダイヤの原石との偶然の出会いが醍醐味のひとつ

── 2000年前後に大スターを立て続けに発掘されますが、そのときのエピソードについて教えてください。

1997年に優香を池袋で見つけてスカウトしたんですが、これはほんとに偶然の出会いでした。

蜷川幸雄さん演出の「身毒丸」という舞台の主演俳優を探すオーディションを始めたんですが、池袋で雑誌のイベントがあってオーディション告知のビラを撒かせてもらっているとき、一緒にいた部下が見つけたのが藤原竜也。

同じ日に、「あ、可愛い子がいる!」と思って声をかけたのが優香だったんです。男の子を探しにいって女の子をスカウトした…というわけです。

── やっぱりインスピレーションですか?

どうかな。優香に会社へ来てもらって何人かの社員に会わせたんですが、みんなあんまりいいリアクションしないわけですよ。それで余計火がついちゃって、プロのメイクさんに入ってもらって水着着せて写真をスタジオで撮っているうちに、「これはすごい!絶対売れる!」と確信して、プロモーションの計画を組み立てていきました。はじめにあるのはインスピレーションかもしれませんが、タレントの才能を開花させるマネジメントとどう合致させていくかが重要だと思います。

ただ、優香の場合、予想以上にうまくいっちゃって。自分が考えたプロモーション計画の3倍位のスピードで売れていったんですよ。私は控えめな性格であまり調子にのるタイプじゃないんですが、この時ばかりは調子こきましたね(笑)。

── その後は2000年のスカウトキャラバン、綾瀬はるかさんとの出会いですよね。

1999年に翌年のスカウトキャラバンの実行委員長を指名され、引き受けました。優香をスカウトして大ブレイクしたことで調子こいていたせいもあってか「自分の目しか信じない」という生意気な考えで、書類選考を一切せず、全国20か所をまわって、来た人全員に会って私がジャッジすると決めたんです。綾瀬はるかは友達の付き添いで来ていて、受付の社員が「君も受けなよ」みたいな感じで、ほんとたまたま受けてくれたんです。

広島地区代表に選んで決選大会にも進みましたが、当時の私は自分の目しか信じてなくて、他の子をグランプリにしました。ただ、他の審査員から綾瀬はるかの評価がすごくいいので、審査員特別賞にしたんです。

だから、綾瀬はるかを最初に見つけたのは私かもしれないですけど、育ててスターにしたのは間違いなく私ではないです(笑)。

── 他に印象的だったタレントさんはいますか?

もう本当にいっぱいいますけど、石原さとみはやっぱりすごいですね。彼女のすごさは、自分の意見をしっかり持っているところ。間違ったこと言わないし、ガッツも向上心もある。自分が成長すると思えば辛いことや嫌なことでも果敢に挑戦する。あんなに芯があってブレない子はなかなかいないですよ。
タレントが10~20代の頃って、マネージャーとしてはお膳立てしたことを文句も言わず頑張ってやってくれる子がいいんですよ(笑)。でも、30歳過ぎてくると、セルフプロデュースができる子じゃないと残っていけない。石原さとみは、20歳過ぎ位からそんなところがありましたね。

20代でも積極的にプロデューサーに抜擢する

── 映像制作と、それまでのお仕事との決定的な違いはなんでしょうか?

タレントマネジメントって、ゴールがないんですよ。まず、スターにするのはものすごく難しいことなんですが、スターにしたらそれで終わりでなくて、今度はそれをキープしないといけないですよね。たとえば、ドラマだと3カ月間で終わってしまうので、すぐに次の仕事を決めにいかないといけない。バラエティーだと比較的長く番組は続きますが、常にタレントのことを考えて、ステップアップする仕事を決めていかないといけないですよね。それに、タレントは人間ですから当然感情があって、そのケアも必須。いつまでたっても終わりがないんです。

それでいうと、映像制作は「一丁あがり」があるんです。たとえば、映画にしてもCMにしても、ドラマもバラエティーも、企画して準備して撮影して編集してMAして納品してオンエアや公開したら、そこで1回終わるんですよ。その瞬間のストレスフリー感はたまらないですね(笑)。「終わったー!」となる。

── 御社で働くことの魅力はどのようなところでしょうか?

そうですね。私の今いる映像事業部で言うと、映像制作っていうのは叩き上げの人が多いんですよ。ドラマとかCMだと特にその傾向があります。20〜30代はADとかAPをやって仕事を覚えて、30代後半から40代でプロデューサーになるのが一般的だったんです。それだと、いまの若い子たちにとっては入社したとしても、プロデューサーになるまではものすごく時間がかかるイメージじゃないですか?

社会人生活は長いからもちろん焦る必要はないんですが、下積みが長いと感じると有望な子でも辞めちゃうんです。それに若い世代がターゲットになる作品も作らないといけない。だから、20〜30代でも、いい企画を考えてきたら、ADやAPだったとしてもプロデューサーにしちゃおうと決めました。

たとえば、うちの当時25歳でAPだった女性が、ある日私のところに企画書を持ってきたんですよ。それを山手線で移動中に読んでたら、不覚にも感動して泣いちゃったことがあります。山手線の車中でおっさんがひとりで泣いていたら怖いですよね(笑)。それで企画通して、映画会社に話をもっていって。26歳でプロデューサーに抜擢しました。いま彼女はまだ31歳だけど、すごく頼りになるプロデューサーとして活躍しています。ホリプロは今年(2020年)で60周年になるんですが、その60周年記念映画も25歳のAPの男性の企画に決めて、プロデューサーにしました。今後も企画を通せば、20代でもプロデューサーに抜擢していくつもりです。ただ、企画が通らないとまたAPに逆戻りですが。

あとは、積極的に権限委譲をしたいと思っています。それに「これやりたいんです」って言われて、頭ごなしに「ダメだ」ということはまずないですね。うちの会社の仕事って、毎日が学園祭のようなものなんです。なにかを企画して、準備して、当日を迎えて盛り上がって、打ち上げして終わる。だから、やりたいって言うならやってみなさいと。ただ、学園祭と違うのは利益を残さないといけないってことだけ。ビジネスですから。もうひとつ魅力があるとしたら、毎日同じことはひとつもないってことかな。

コロナ禍や“テレビ離れ”にどう対応するかが肝

── 芸能ビジネスにおける課題はなんでしょうか?

課題のひとつは、やはり若い世代の“テレビ離れ”ですね。私も高校生の娘がいますが、もうその世代以下は“テレビ離れ”というより、最初からあまりテレビを観てないんですよね。広告費も昨年、ネット広告がテレビ広告を抜きましたし。

僕らの世代はテレビが大好きでこの世界に入ってきたので、それを作り続けたい気持ちはあります。が、配信とかYouTubeなどの新規媒体の映像も作るようになっています。ただ、出演するタレントも、コンテンツの作り手も、同じ人間でやれるんですけど、なかなかすぐに収益化にはつながらないのが実感です。テレビ的な作り方をしちゃうと、全然バズらないんです。タレントもスタッフもそこをもう少し勉強していかないといけないと思ってます。

── コロナ以前と以後で、なにか変化はありましたか?

変化はもちろん、かなりありますよ。仕事的にリモート作業ができるジャンルはまだマシですが、舞台・イベントを作るところは大変ですね。映像は作ろうと思えば作れます。だから、リモートドラマも制作しているし、ライブを配信するなどいろいろやっていますが、いまいち盛り上がらない。

やっぱり、エンターテインメントっていうのは人が集まったところでブームが産み出されるものだから、人を集められないという時点で非常に苦しいですよね。ただ、いまはそれを踏まえてやっていくしかないって思っています。

型にはまらなくてもいい。必要なのは適応力

── これからの時代、この業界で必要とされるのはどんな人物でしょうか?

やっぱり、適応力が求められるでしょうね。今、コロナのこともあって、なかなか打開策が見つからないなか、配信系やIT系の人と話をすると、この状況を憂いていないどころか、むしろ在宅する人の割合が増えるからチャンスだと捉えているほどで。こんなときでも、すんなり適応して次のアイデアを出してくる。そういう人がこれから必要ですよね。この仕事には方程式なんかありませんから。

── 若手が業界で活躍するために「今日からできること」ってありますか。

ひとつ挙げるなら、発言する勇気をもってほしいということですかね。たとえば、会議とかでも喋んないし、挨拶もあんまりしない…。それって多分、普段から自分で何か考えるクセがついていないからだと思うんです。いつも面白いことを考えていて、それを書き留めていく、といったことをやってほしいですね。

日々、インプットしたり、気がついたことを書き留めるクセをつけておくというのが大事です。すると、いいタイミングで発言できる。別にそれがトンチンカンな内容だったとしてもいいんです、言わないよりは言う勇気です。言わない限り、実現することは絶対ないので。

── 中途かつ未経験でエンタメ業界に入るためにはどんなスキルやポテンシャルが必要ですか?

以前はゼネラリスト、なんでもそつなくこなせる人が重宝されがちだったんですが、いまはちょっとずつ変わってきていて、スペシャリストというか専門性の高い人も採用されるようになってきています。たまに型にはまらない人がいて、和を乱すぐらいのほうが刺激があって面白いんですよね。部内の活性化にもつながりますし。

中途の人は即戦力になりますし、経験者に来てほしい気持ちもありますが、こういう時代ですから経験が役に立たないことがあるかもしれないし、異業種の方に引っ掻き回してもらうのも面白いかもしれないですよね。

まず、“人ありき”。エンタメとは生きるための活力をくれるもの

── 津嶋さんにとって「人(人材)」とはなんですか?

うちの会社はタレントもスタッフも人間、つまり売る方も売られる方も人間。人があってのビジネスですから。いわゆる「人材」が全てですね。もちろん音楽には楽器が必要、映像にはカメラが必要、っていうのはありますけど、「人」さえいればイベントだって舞台だってできますし。まず、「人」ありきですね。

── 津嶋さんにとって「エンタメ」とはなんですか?

エンタメってね、それがなくても死なないものじゃないですか…? つまり衣食住と関係ない。そのせいかコロナ関連の助成金も、エンタメに対しては一番遅かったりしました。だけど、エンタメがないと寂しいというか、生きる張り合いがなくなるというか。

ひとつ、今だから言える私がマネージャーをしていたときのエピソードを例に挙げますと、「夢を叶える」ことを目的に設立された非営利組織から、電話がかかってきたことがあるんです。ある難病を患った中学生の女の子がいて、その子が藤原竜也のファンで。その彼女が、手術を受けることが怖くて嫌がっているんだけど、藤原竜也さんから頑張って手術受けてって言われたら、その子はきっと受けてくれるって。だから、病院に会いに来てくださいって頼まれました。

ビジネスであれば冷静にジャッジできるんですが、これは仕事じゃない。それで、当時20歳になったかならないくらいの(藤原)竜也に相談したんですよ。そしたら彼は「行きましょう」って即答したんですよ。それで竜也と一緒に病院に行って、無菌室のベッドで寝ているその女の子と面会しました。

竜也が励ます言葉を聞いて、彼女が小さな声で「手術受けます」って言ったんです。これこそ実はエンタメなんじゃないかなって思うんです。人を励ましたり、喜ばせたり、感動させたり。そんなことができるのって、素晴らしいことじゃないですか? 「辛くて学校行きたくない」とか「仕事行きたくない」とか…、そんなことって誰しもありますよね。でもね、「好きなタレントが頑張ってるから、しんどいけど明日自分も頑張って学校に行こう!」とか、ある作品を見て感動して力が湧いて「自分も明日頑張って仕事に行こう1」って思えるとか、そういうことってあるはずなんですよ。それがエンタメの力かなって気がしますね。

〔取材は2020年10月17日、株式会社ホリプロにて〕

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