【前編】元フジテレビアナウンサー田中大貴さんの枠にとらわれない新しいキャリア 〜タレントキャリアアドバイザー 別府 彩が聞く!〜

 

田中大貴さん
1980年4月28日、兵庫県生まれ。
元フジテレビアナウンサー。2018年に独立し、現在スポーツアナウンサーでありながら株式会社Inflightの代表を務め、スポーツコンサルティング事業を手掛ける。
YouTube「田中大貴のアスリートチャンネル【アスチャン!】」を毎週配信中。

この記事の監修者

別府 彩
別府 彩タレントキャリアアドバイザー

元フリーアナウンサー/タレント。
大学卒業後、およそ10年間フリーアナウンサーとして活動。31歳のときにグラビア写真集「彩色」(竹書房)を出版。
「踊る!さんま御殿!!」(日本テレビ)に出演するなど、バラエティ番組やラジオパーソナリティ、テレビCMナレーターなどの経験を持つ。
33歳で芸能界を引退、広告代理店に正社員として就職。イベント運営会社、イベントコンパニオン事務所を経て2020年に株式会社エイスリーに入社。
現在は、アナウンサーから会社員という自身の転職経験を活かし、日本初の“タレントキャリアアドバイザー”として、芸能人やクリエイターのパラレルキャリア・セカンドキャリアのサポートを行っている。

Twitter
https://twitter.com/a3_ayabeppu

プロ野球選手を夢見た学生がフジテレビに就職。アナウンサーを選択したのは失敗だった!?

―― 名門野球部で活躍されていた田中さんが、なぜアナウンサーの途へ進んだのでしょうか。

高橋由伸さんに憧れ、受験勉強を頑張って慶応義塾大学に入学し、体育会野球部に所属していました。

神宮球場でプレーして、将来はプロ野球選手になりたい、という思いがありました。

僕らの世代は「松坂世代」と呼ばれていて、ある種の指標として用いられていました。この選手よりも力が上回っていたらドラフトの上位に行ける、という感覚が掴みやすい学年だったのです。

僕と同じ世代で現在も福岡ソフトバンクホークスで活躍している和田毅選手など実力のある選手のボールを打てればプロ野球への途に挑んでもいいのではないかと考えていました。結局、最後の最後まで和田毅選手のボールを打てなかった自分がいて。

その時点でフジテレビの内定をすでに頂いていたので、これは運命としてプロ野球選手ではなくアナウンサーとして生きていきなさいと言われているのだと思って決断しました。

―― 入社してからのキャリアは順調だったのでしょうか。

いえ、まったく順調ではありませんでした。実際にアナウンサーになって、場違いだったなと感じていました。アナウンススキルはなかなか上達しなくて、テレビを通じて言葉で伝えることがこんなに難しいことだったのだと、入社1年目から2年目の間は毎日思っていました。

もう辞めようかなとすら思ったときもありました。当時、野球を一緒にやっていた同級生がどんどんプロ野球選手になって活躍する姿を見ていたので、彼らを羨む気持ちもありました。

そんな時に「とくダネ!」のメインキャスターをしていた小倉智昭さんに出会いました。小倉さんから「番組制作の現場にはAD、ディレクター、スタッフ、プロデューサー、キャスター、視聴者がいる。大学野球でも2軍3軍があって、1軍がある。そこにはプロ野球に行くようなエースがいて、監督がいて、ファンがいる。この2つの組織作りは全く同じだから、野球をやってきた感性の中で絶対に戦っていけるから」とおっしゃっていただいたのです。その言葉でまた頑張ろうという気持ちになれて、今に至ります。

―― 身にしみる言葉ですね。田中さんといえばスポーツキャスターのイメージですが…

僕自身が野球をやってきて、同級生もたくさんプロになっています。だからすぐにその現場に行けると思ってフジテレビの門を叩いたのです。しかし、最初はワイドショーやバラエティなどの番組に多く起用されていました。スポーツ実況の練習はしていましたが、20代の頃はスポーツの現場にはなかなか使ってもらえませんでした。

今振り返ってみると、20代の頃はスポーツの現場に行く機会はなかなかなくて、事件や自然災害の現場、国会等に行っていましたね。政治、経済、事件、社会問題に向き合い、結果としてそれが今のビジネスやバランス感覚を培うのにとても活きています。

多角的に物事を捉えられるようになりました。ともするとスポーツだけにかなり偏りそうだった僕の人生がすごくフラットに戻った感じがあって、スポーツ系のアナウンサーだけをやっていたら今の自分はないなと。

そんな中で「とくダネ!」のスポーツ担当になったことがきっかけで、ワイドショーの視聴者へスポーツがいかに楽しいかということを伝えるというところから、最終的には「すぽると!」というフジテレビの看板番組のキャスターになれたというのが人生の大きな転機だったと思っています。

日本中が驚いた!人気絶頂期にフリー独立へ。「初を超えるバリューはない」という信念

―― テレビ局のアナウンサーはフリーアナウンサーと比較すると、多くのジャンルの仕事を経験することができて、その中で自分の適正を見極められるというのが魅力ですよね。

そのあたりは対になる部分もあって。魅力的な要素もすごく大きいのですが、そうではない部分もあります。局のアナウンサーは会社員なので、希望は通らないことも多い。自分がどうしてもスポーツキャスターをやりたいと伝えていても、報道キャスターをしなければいけないこともある。またはアナウンサー職をずっとやっていたいと伝えていても、人事部や広報部への異動もあります。そういったことが起こり得るのが会社員アナウンサーなので、外から見ると魅力的な環境だと思われがちですが、実は日々そういったアナウンサーを出来なくなるかもしれないというリスクを感じているのです。

フリーのアナウンサーなら、スポーツ番組が一つ終わってしまったとしても、チャンネルの垣根を超えて似たような仕事をできる可能性がある。そういう点ではフリーという立ち位置は魅力的だと思いますね。

―― 局アナもそういう不安を抱えているのですね。田中さんが退社に踏み切った背景にはどんなことがあったのでしょうか。

僕はもともと「初を超えるバリューはない」と思っているのです。

例えば慶應義塾大学の体育会野球部からアナウンサーになったのは僕が初めてですし、僕の地元である兵庫県立小野高等学校という公立高校から慶應義塾大学体育会野球部に入ったのも僕が初めてでした。また、30代半ばでMCの経験もある男性アナウンサーがフジテレビを辞める、というのも初めてで。

決断は早いほうがいい、というのは常々思っています。メディアの在り方が2020年以降にドラスティックに変わっていっているのはキャスター時代から身に染みて感じています。

ABEMAやDAZN、インターネット配信事業者が出てきて、SNSが圧倒的な力を持ち始めました。若い人たちが今後、絶対にSNSやインターネット配信事業者の番組を見るようになっていくだろうということは、僕らは反対側のテレビ局の人間として痛感していたのです。

僕は、テレビのノウハウが現時点では世界一だと思っています。そのテレビのノウハウを持って新しいメディアに行って経験を積み、それからまたテレビに戻して、ということを考え始めたのが30代半ばでした。

僕は幸いにもオリンピック番組キャスターやプロ野球日本シリーズの実況アナウンサーというのを、テレビのいい時代にやらせていただくことが出来ましたが、同じことをさらにクオリティを上げて出来るかと聞かれた時に、自信を持って「出来る」と言えなかったというのが本心で。

そんな中で、テレビの外では様々な可能性が生まれ始めているのも見えていたので、失敗する可能性も高いけれど、そちら側に行ってアナウンサーという枠を越えてみようと思いました。

独立と同時に起業!アナウンサーと会社経営、二足の草鞋を履き続ける理由

―― フリー独立と同時にご自分の会社を設立されたのですよね。どんな仕事をしているのでしょうか。

簡単に言うと、アナウンサーだけで生きていけると自分では全く思っていませんでした。でもアナウンサーの仕事は大好きなので続けていきたいと思い、そのためにもう一つの軸、デュアルキャリアとして生きていこうと考えていたのです。

独立と同時に会社を興して、アナウンサーとスポーツビジネスという仕事の二本立てにしました。この2つには親和性があってリンクしていくと考えたというのが入り口ですね。

例えば、アスリートが「キャリアサポートをしてほしい」「イベントをやりたい」「就職先を探している」「グッズを作りたい」「チームやエージェント、代理店を探している」「税理士や会計士を探している」「海外留学をしたい」「チームを移籍したい」「メディアに出たい」など、どんなことでも僕のところに相談内容をポンと落としてもらえればすべて出来るような会社にしようと思って始めました。

キャスティング会社とのリレーションもアスリートが「表に出たい」という場面では必要になるので、株式会社エイスリー(弊社)さんともタッグを組んでいます。こういった形で様々な事業者と契約をしていこうと思ったのがスタートです。

僕の会社がハブになって、選手、チーム、球団、組織、協会をコーディネートできる会社にしようというのがコンセプトですね。

―― アナウンサーとしてスポーツに関わるなかでスポーツビジネスのアイデアが生まれたのでしょうか。

そうですね。アナウンサーの仕事は、100の取材をしたとしても、テレビでオンエアされるのはそのうち2%か3%で、あとの97%は僕らの心の中にしまっておく、という作業なのです。その97%をやっぱり世に出したいなと思いましたし、救うというとおこがましいかも知れませんが救いたいなと。今スポットを浴びていない選手にも、より輝いてほしい、辞めないでほしいという想いがあって、それらを実現する世界を作るにはどうしたらいいのか、キャスターをしながらずっと葛藤を抱えていました。

―― アナウンサーという仕事は「言葉を伝える仕事」でもありますが、「人と人を繋ぐ仕事」でもあると思います。番組の表面上の繋がりだけではなく、裏側でも繋いでいける人が長く活躍しているのではないかと。そういった意味では、田中さんはずっとご自身がハブになってやってきたのではないでしょうか。

自分が野球選手としてプロになりたいという思いでやってきたという経験則や、実際に同級生がプロになってどのような考え方をしているのかを目で見て体感出来る距離にいたというのは、アドバンテージかもしれないですね。

アスリートの気持ちをより深く理解できるという部分については、自分の中の才能というか特技であると思っています。

アスリートの方たちに「またこの番組に来たい」と感じてもらえるような空気感のある、愛される番組作り。番組も人が作るので、人の良さや人間性というのが画面から絶対に出ると僕は思っていました。だからこそ、オンエアに出ていない分をどのようにコーディネートできるかということをとても大事にしてきましたね。

そして番組に出てくれた方はこの後人生がどうなっていくのか。また一緒に仕事をするためには、今後輝いてもらうためにはどうしたらいいのか、ということを考えるのが僕はとても好きだったのです。それが今に活きていますね。

アナウンサーやキャスターという枠を越えて付き合えるようになろうというのは常に考えていました。

人に会い続けること、足を運ぶこと、そこを惜しまない。

会社を辞めてからはとにかく人に会うことが新鮮で、とても楽しいです。もちろん嫌なこともありますけれども、100人に会って死ぬより1万人に会って死ぬ方が人間的には豊かになるのではと思うタイプなので、とにかく人に会うこと、っていうのが一番大事です。

後は「即断即決即行動」ということに関してとにかくこだわってやり続けることが大事ですね。

 

 

テレビ局を退職しフリーアナウンサーとして独立、さらに起業もかなえた田中大貴さん。

どのようにビジネスを作り上げていったのか、これから成し遂げたいことはどんなことか。

インタビュー後編へ続きます。

 

 

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